99)東日本大震災 復興ボランティア活動 その3
ゴジュウカラ
ゴジュウカラ
2012年10月18日〜11月1日まで盛岡市川井キャンプをベースに震災ボランティア活動を行ってきました。
10月18日木曜日
三度目の東北震災ボランティアへ出発する日の朝、バイクで行くため心配していた空模様は朝日がまぶしい晴天だった。気を良くして準備をしていると突然小さな衝突音が響いた、 「ゴン!」と窓に何かがぶつかった。

外に出ると窓の下に小鳥が転がっている。手に取ると既に力尽きていた。「ゴジュウカラ」窓に映る青空に飛び込んでしまったようだ、小さな亡骸を残してガラスに映る向こうの世界に飛んでいってしまった。

半開きの目を閉じると眠っているように見える。まだ自分が死んでしまった事に気がついていないだろう。衝突の瞬間は記憶に無く、痛みも恐怖も無く、ただ突然に夢の世界へ行ってしまう。突然の事故とはそういうものだ。

これは何かの暗示かもしれない。昨年の事故が脳裏をよぎる。出発を見送ろうかとも考えた。しかし亡骸を撫でているうち、漠然とした怖さや危機感では無く不思議な安堵感が沸いてきた。もし何処からかの警告ならば、それは事が起こっても「まだ助かる余地がある」という何の根拠も無い楽観的安堵感だ。

「まったく助かる余地が無ければ警告などしないだろう」きっと小さな使者を使わせた意図があるはずだ。それは「気を付けて行って来い」という注意喚起に他ならない。

勝手な思い込みだが妙な確信がある。よしんば的外れで、後に事が起きて夢の世界に行く事になったとしても、それは何が良い悪いでは無く単に「ごくろうさん」て事だ。

北海道の先住民アイヌの考え方では生き物は全て神が姿を変えて地上に降りたものらしい。そして命を失うとまた神の世界に戻るという。ただし尊厳をもって正しく弔う事が神の世界に戻る条件になる。

神にも良い神と悪い神がいて悪い神は正しく弔って貰えない為に帰る事が出来ない。たとえばアイヌを殺した蝦夷羆などは悪い神になる。

「ゴジュウカラ」尊厳をもって送り返してあげよう。

出発が遅くなったが急いではならない。時間は十分ある。

救命救急病棟入り口が見える駐輪場にバイクを停めて外来リハビリを受ける。今回も外来リハビリの合間を使って「ボランティアという名のリハビリ」をさせてもらう為に東北に行く。

整形外科病棟に立ち寄って二度目の復活報告をした。オフロードバイクブーツを履きプロテクターを纏いヘルメットを片手に装備を背負って歩いていれば、もう説明の必要もなく「気おつけて行ってきて下さい」と言葉をいただく。生かして貰った身体大切に使ってきます。

夕暮れ時、救急救命入り口前からバイクを発進させた。閉店間際のパン屋で特売のパンを買い込み苫小牧港に向かう。なまった身体に夜の冷え込みが厳しくアクセルが緩む。芯まで冷え切る前に港に到着。23時59分発八戸行きのフェリーに乗って北海道を離れた。

出航の時、ビールを持ってデッキに上がり離れ行く街明かりを見送った。潮風が湯上りの肌に刺さる。もう冬はすぐそこに迫っていた。

生きている人は痛みも悲しみも背負って生きる。死んでしまった人は夢の中で遊ぶだけ、寒いも痛いも生きるとセットになっている。

夜の出航は感傷的な気持を増幅させる。
瓦礫置き場
岩手県野田村、国道わきの瓦礫置き場 
10月19日金曜日
7時30分八戸港接岸、車両甲板のハッチが開き朝の光が差し込む。バイクのエンジンをかけて甲板員の発進指示を待つ。フェリーで上陸の時はいつもサンダーバードのテーマが流れる。フェリーの中から朝の光の中に発進する。港の八戸大橋をアクセル全開で駆け上がる。肌に刺さる潮風が心地よい。朝一番の上陸は希望的な気持ちが増幅される。

久慈市の働く人の店で作業グローブ等を買い、野田村のボランティアセンターに顔を出して、並びのレストラン「みなみ」で早めの昼食をとり、宮古市かわい地区にある「かわいキャンプ」に向かった。

途中国道をそれて海岸沿いにルートをとる。道沿いに三陸鉄道の橋梁跡が聳える。津波に千切られた鉄筋むきだしの基礎が復興祈願のオブジェのようだ。

宮古の漁港に寄ってみる。ちょうど漁船が入港してサンマの水揚げをしていた。漁港の一角には津波にやられたままの姿で封印された道の駅がある。
以前そのレストランで食べた「サンマずくし定食」を思い出していた。建物の前で仮説プレハブ営業している食堂に「サンマ」はまだ無い。宮古の塩サイダーを飲んで復活を願う!

宮古市内の古き良きショッピングセンターで買い出しをする。エスカレーターで上がってみると昔懐かしい感じがするデパートの佇まいだ。バイクに燃料を入れて海岸を離れ内陸部へ、大きく蛇行する閉伊川(へいかわ)を遡り30分程で川井地区に到着する

夕方「かわいキャンプ」入り、利用二回目なのに既に「ただいま」的感覚に満たされる懐かしき校舎。職員の方が温かく迎えてくださる。前回7月末に活動した時から早4ヶ月、季節は移ろい連日30度超えの暑さ恋しい朝晩の冷え込みになっていた。毛布を一枚余計に借りて三階へ、畳を敷いた教室の雑魚寝部屋が懐かしい。誰もいない教室でそれぞれの寝袋が帰りをまっていた。窓際の角地に寝床を作る。

前回一緒に活動した方が数名未だ活動を続けていた。皆で食べる食堂の晩ご飯も懐かしい。内情が少し解ってくると見え方が面白い。

晩に張り出された翌日のニーズ表には側溝泥だしがあった。震災から一年以上経つがまだまだ泥だしあるらしい。迷わず名簿に記入する。

消灯時間、小さな山村は大きな静寂に包まれる。しかし教室の窓から見える星達は一晩中賑やかだ、月も明るい。
道路側溝に詰まった津波の泥
道路側溝に詰まった津波の泥
10月20日 土曜日
本日の作業は大槌町ボランティアセンターの求めによる大槌高校通学路の道路側溝泥だし作業。かわいキャンプチームはマイクロバス一個小隊投入。現地集合の他団体ボランティアや個人ボランティアの方々との合同作業。

主要道路から一本仲通に入るとそこは震災当時そのままに津波の泥や瓦礫に埋まったままの排水溝が放置されている。雨が降る度に冠水する通学路で生徒は靴を濡らしていたという。

コンクリート製の蓋を器具で掴んで持ち上げ外し、中にびっしり詰まった泥をバールで突き崩しスコップで掻き出す。

津波によって埋められた側溝の復旧は相当な重労働になる。当時街が破壊された残骸が粉砕されて流され排水溝に高密度に圧縮され詰まっているものだ。

屋根瓦や壁材にコンクリート片、多量の砕けた窓ガラスに紙くずのように潰れた窓枠のアルミサッシ、未開封の栄養ドリンクの瓶類、津波の第一波で破壊された街の残骸のうち質量の重い小さい物体がびっしり詰まっている。そして海底のヘドロのような微細な泥がまるでコンクリートでも流したようにそれらを固めている。

泥と聞くと柔らかいイメージを思い浮かべるかもしれない。ところがそうではない。元は柔らかかったに違いないがまるで100年乾かして固めた栗羊羹のように瓦礫を具材にカチカチに固まっている

その硬さは剣先スコップを寄せ付けない。信じられないくらい高密度に固まっている。それを撃ちくづすにはバールを突き立ててすこしづづ削るように掘り進む。崩した瓦礫をスコップで掬い出し撤去する。

突き崩しほぐす事で元の容積の何倍もの瓦礫になる。それを道路脇に積み上げ猫車に乗せて一カ所に集めて回収する。道路下の暗渠部分を突き崩すと震災直後に嗅いだ津波の泥の匂いがした。ここは震災当時のまま放置されていた場所だった。国道や主要道路は綺麗に見えても一本生活道路に入ればそこは震災当時のまま放置されている現実がある。

昼食は作業現場から歩いて5分の大槌町復興商店街に行く、そこは大槌小学校の向かいに二階建て仮設プレハブをコの字に建てた仮設商店街。基礎だけになった町を歩いて行くと狭い範囲に町の機能が凝縮していた事が実感出来る。そこを津波が襲った。
大槌町ボランティアセンターの寄せ書き
大槌町ボラセンの寄せ書き
10月21日 日曜日
本日も大槌高校通学路側溝泥だし
この日は首都圏からの日帰り個人参加のボランティアグループ等が多数参加して5〜60人の大人数で作業にあたった。かわいキャンプからはマイクロバス一個小隊投入。連日同じ場所で同じ作業を継続するのは段取りが早い。昨日よりも規模を広げて広範囲の泥だしを行う。

基本的に参加ボランティアは作業出来る服装で身体一つで現場にやってくる。スコップ等の作業道具は作業依頼する現地の社会福祉協議会(以降=社協と表記)が用意する。

しかし今回は人数が多いのでかわいキャンプの道具も持参した。朝現場で参加者が集合して段取りをして道具を手に作業開始。適宜休憩と水分補給をしながら作業を行う。昼食を挟んで午後の作業終了時、現場清掃をして道具を社協の軽トラックに積み込んで撤収前に全員で集合写真を撮影する。

現地集合ボランティアはその場で解散となる。社協集合のボランティアは一緒に社協に戻りそこで解散となる。かわいキャンプのボランティアは一旦社協に戻り、そこで軽トラックから使った道具を下し、こびり付いた泥を洗い落としてすぐ使える状態にして、それぞれの道具の保管場所に返す所までを行う。

剣先スコップ20丁、平スコップ20丁、ツルハシ5本、バール5本、ジョレン10本、一輪車(ネコ車)8台、竹箒4本、側溝リフター2台、軽トラック山積み分の道具を綺麗にするのは時間がかかる。仮設プレハブ社協事務所前の簡易水道のホース付き蛇口は一本しかない。ネコ車に水を溜めて水槽にして中でスコップをこそいで大まかな泥を落とし、仕上げにホースの水を掛けながら洗車ブラシでこする。

秋の夕暮れは早く寒さが迫る。皆で手分けして作業を急ぐ。その傍らで社協集合のボランティアがそれぞれの車の所に集まり談笑している。これは本来は社協の担当の仕事なのかもしれない。しかし我々は手伝える事があれば進んで手伝う為にこの場所にやってきている。誰かの指示を待つまでもなく、それぞれが考え、当たり前のように泥を落としていた。

そこに談笑の輪から一人こちらに向かって歩いて来た。やっと手伝う気になったのかな?と思ったら、おもむろにホースの前にしゃがんで「いいっすか」とスコップの泥を落としている手を遮って自分の手を洗い始めた。おもわず回りのメンバーと顔を見合わせてしまった。その後も二人三人と道具を洗う手を止めさせて自分の手を洗いにやって来た。

その事が夕食の話題になった。結論として「それを責めてはいけない」「完璧を求めてはいけない」彼らも自らの意思で被災地にやって来て泥だしをした。それで十分だ。必要な事に気がついた我々がフォローしてやればいい。というものだった。

この輪に加われた事を幸運に思う瞬間だった。かわいキャンプで活動をすると皆変わっていくという理由の一つがわかった気がした。
ピカピカの長靴
ピカピカの長靴
10月22日 月曜日
宮古市でのベンチ補修作業。これは仮設住宅での人々の交流の場になればと設置された木製のテーブルとベンチが、風雨により色あせてしまったので補修して色を塗り直す作業。住民の方々とボランティアが一緒に作業を進める試み。一台ずつ分解してヤスリがけして下地を塗ってから色塗りをして仕上げて組み立てる。宮古市ボラセンプレハブ前で作業をする。かわいキャンプから二名参加。
宮古市災害ボランティアセンター
宮古市災害ボランティアセンター
10月23日 火曜日
大槌町の屋外作業の予定が雨で中止になり、急遽宮古市でのベンチ補修作業に変更。宮古市社会福祉協議会の仮設プレハブ倉庫の中とブルーシートの天幕の下にベンチを運び込み補修作業をする。

途中仮設住宅に住む方からの要望で雨が降ると水が溜まる場所に足場のゴムマットを敷いてほしいとの力仕事を引き受ける事になり現場に行ってみると、それは4ヶ月前に初めて「サロン活動」を行った仮設住宅だった。「サロン活動」とはプレハブの仮設住宅集落の一角に設けられた住民の為の談話室、集会所のような寛ぎの部屋=サロンにて仮設に暮らす住民の方々とコミニュケーションをとる活動

その依頼者の方こそ前回サロン活動で知り合って話が盛り上がり、礼文の花の写真が見たいとの要望を受けて、急遽談話室のテレビにデジカメを繋げて花の写真スライドショーをさせてもらった方だった。

なんたる都合の良い偶然。たぶん何かの縁で繋がってますね(笑)談笑しばし、先々週北海道の大雪山の紅葉の写真を撮ってきました。都合の良い日にまたスライドショーでお見せしたいと思いますが?・・・と明日訪問の約束をする。
大槌町復興商店街で野外コンサート
大槌町復興商店街でコンサート
10月24日 水曜日
本日の活動は個人活動という事にしてもらって、かわいキャンプ朝礼の後、宮古市内にサロン活動に向かう。宮古社協に顔出してこれから行く旨確認取って仮設住宅に向かう。

ところが現場に付くと別のボランティア組織が当該サロンでちょうどカフェの準備を始めた所だった。確認をとっていたはずがバッティングしてしまった。写真を見ながらカフェでも?とのお誘いもいただくも、また来ますと引く一手、後で電話で連絡取り合って日程を決める事に、宮古の社協に戻りイベント事の予定を確認して教えてもらう。

予定が空いたので大槌町復興商店街に向かい飲食をする。きのこのダシが効いたひっつみ汁が超旨い。食後に喫茶店でコーヒーを飲んでケーキ屋さんでシフォンケーキを買って帰った。この日は大阪から「通天交響楽団」がやってきて商店街で路上コンサートを開いていた。沿岸被災地を巡っているという。

ボーカルの女性は挨拶で声を詰まらせて温かい拍手を貰っていた。青空の下透き通る歌声が商店街を包む。気持ちの通ういいコンサートを聞かせてもらった。
大槌町 吉里吉里復興食堂の鮭親子ヤキソバ
大槌町 吉里吉里復興食堂の鮭親子ヤキソバ
10月25日 木曜日
宮古金浜地区畑整備、ここは津波に飲まれて壊滅してしまった地区。当時木造家屋が全て基礎を残して瓦礫と化す中で必然的に更地の畑が救援車両の駐車スペースとなった。重機を使って地面をならし砂利を敷き瓦礫撤去の車両基地としても使われた。

そこは先祖代々客土をして育てて来た大切な田畑だった。しかし瓦礫の撤去が終わると荒れ果てた地面がそのまま残されていた。老夫婦は二人だけで復旧を始めた。くわで掘り起こしふるいを使ってゴミを取り除いている。

それを見たボランティアが話を聞いて「手伝いましょう!」となった。国道からよく見えるこの場所を花畑にして復興のシンボルにしよう。かわいキャンプが継続的に活動している整備作業。今回もスコップで土を掘り起こしふるいをかける「やった感」十分な土木作業(笑)かわいキャンプからワゴン車一個小隊投入。
大槌川河川敷
大槌川河川敷
10月26日 金曜日
大槌町菜の花畑プロジェクト 大槌町で犠牲になった1700名以上の方の供養になればと、大槌川河川敷を菜の花畑にするお手伝い。

この日は整地された区画に溝を掘って種を蒔く作業。大槌町ボランティアセンター前で作業準備をしていると今日初参加の個人ボランティアさんが新品下ろしたてピカピカの長靴を履いていた。面白がって写真を撮らせてもらう。

昼食時大槌町吉里吉里復興食堂に連れて行ってもらい鮭親子丼をいただく。これは本気のB級グルメだ。この日送迎をしてくれたかわいキャンプ支援員の方は大槌町出身で、菜の花プロジェクトの河川敷の堤防を隔てた大槌中学校の卒業生との事、

津波に飲まれた中学校は遺体安置場になり、多数の同級生が亡くなってしまったと堤防の上を走る車の中から変わり果てた母校を見て教えてくれた。

一部には地震があると海に津波を見に行く習慣があったらしい、勝手な想像だが巨大な防潮堤の安心感がそうさせるのかもしれない。もし当時自分が現場に居合わせたら、まるで要塞のような防潮堤の存在を知っているので、それが津波を弾き飛ばす瞬間を見たくて一緒にいっていたかもしれない。

当初テレビの津波速報ではこの地域の高さは予測は3mだったと記憶している。その程度なら防潮堤が跳ね返してくれるはずだった。かわいキャンプからワゴン車一個小隊投入。他に自動車製造メーカーの研修を兼ねたボランティア団体大型バス一個小隊も活動していた。
吉里吉里海岸
吉里吉里海岸
10月27日 土曜日
大槌町 吉里吉里海岸清掃 町を破壊した津波が引く時に海岸に残して行った多量の瓦礫を取り除く。子供が裸足で遊べる美しい砂浜を取り戻す作業。

今回は今年の海岸清掃終了の区切りになる。大槌町社会福祉協議会の募集に全国から集まってきた総勢60名以上が作業にあたる。かわいキャンプからマイクロバス一個小隊投入。

手作業で一個一個取り除く。砂を掘り下げてふるいにかけて瓦礫を取り除く。夏の間にかなり作業は進んでいて一見するとかなり綺麗になったように見える。

実は夏の終わりに今シーズン〆の作業を行っており終了イベントも無事終了していた。しかし今回はそこに参加出来なかったボランティア団体の希望により終了会リターンズだ。前回の修了式でノリで担当者が海に放り込まれており大変だったらしい。今回もまたか!と戦慄が走ったとか走らなかったとか(笑)

件の団体は遠路はるばるやって来た勢いで砂浜に残る大物に思う存分立ち向かっている。相乗効果か?かわいキャンプチームも波打ち際の大物に果敢に挑んでいる。

自分も「ツルハシフルスイング」で砂浜に堆積した瓦礫を砕く。なんで砂浜にツルハシ?と思うだろう、津波の引き波が最後にさらって来た微細な粒子状の物質がまるで黒い石膏を流して固めたように砂浜に5センチ程の層になっている。

それは堤防の切れ目を中心に海に向かって放射状に流れ出して堆積している。どうしてそんな現象がおこるのか?その固さに驚く。通常では考えられない事が起こった現実がある。

この日のかわいキャンプは夏のように賑やかだった。調理実習室は焼き肉の煙で視界2mになり、夜の教室はトドやゾウアザラシがけたたましい寝息を戦わせる海獣ランドと化す。
硬く締まった瓦礫の層
硬く締まった瓦礫の層
10月28日 日曜日
 こちらで継続的にボランティア活動をしている方のお供で営林業者を訪ねる。 この方は近隣県より週末ごとに駆けつけるボランティアの中心的存在。被災者の方々と復興へのプロジェクトを企画立案し、図面引きから現場交渉、人の配置や後のフォローまで全て実行していく。

今回は復興花畑の花壇整備の材料に間伐材を活用できないだろうかとの相談をしに行った。話を伺うと林業を廻る環境的に間伐材の有効活用は望む所であるらしく、森林と共に生きる社会を目指す目的で一般を対象にした間伐体験イベントを行っており、それに参加する中で間伐材を搬出して活用しても良いとの話にまとまる。

普通は費用をどう捻出するかと考える所を、材料をただで貰ってきて更に相手の為になるという話をまとめる力はすばらしい。能力の高い人は何をさせてもそのパフォーマンスを発揮するようだ、一口にボランティアと言っても様々だ。
切り出された間伐財
切り出された間伐財
10月29日 月曜日
午前中は個人営業ボランティアで宮古金浜に向かう。先週訪れた時に畑の傍らに置いてあった古い耕耘機が気になって後日見せてもらう約束をしていた。それは内陸の農家から使っていない古い耕耘機を寄贈されたもので、ところが手を尽くしてみてもエンジンが動かなかったらしくビニールシートを被されて放置されていた。

昭和50年製の富士ロビン、現役を引退してから相当年数放置されていた感じです。しかし可愛らしいデザインの耕耘機、なんとか甦らせたいと思いダメ元で整備させてもらえる事になり、翌日道具を揃えてチャレンジです。

昼食は大槌復興商店街に向かい、ひっつみ汁とケーキをいただく。

午後から先週の約束通り、個人営業ボランティアで宮古市の仮設住宅で大雪山の紅葉の写真をスライドショーして見てもらいました。談話室でお茶を飲みつつ、ヘリ様は死神より早いとか、ウオッシュレットは神様のトイレだねとか談笑しばし、

帰りに木の実を磨いて色を塗り文字を書いたキーホルダーを戴きました。そこには、[いきる]と[絆]と二文字かかれていました。震災後[いきる]という言葉がすきになったとおっしゃいました。只々ともにいきるのみ、我々は繋がっています。
生きると書かれたくるみのお守り
裏面には「絆」と書かれている
10月30日 火曜日
個人営業ボランティアで「耕耘機の富士ロビン」を整備します。バイク用に装備している手持ちの工具でチャレンジです。耕耘機など触った事ありませんが、古い機械はシンプルなのでうまくすれば復活の可能性があります。

壊さないようにゆっくり考えながら分解していくと、錆び付いたワイヤーケーブル類とか交換が必要な部品があります。それらを持ってホームセンターへ、自転車用を加工して代用するか?伝達ベルトはここには無いぞ、部品が有りそうな所を探して宮古市内を巡ります。

事情を話すとあの店ならあるかも?と新たな情報を辿る旅しばし、最後には瓦礫置き場を漁って太い針金を拾って部品にしたりと、いいかげんな整備を取り混ぜて三時間半の作業をして準備完了。

気合一発リコイルスターターを引くとロビンちゃんは甦りました。浜にエンジン音が響くと依頼者は畑の中で飛び上がり駆け寄りハイタッチをして喜び合いました。「ヤッター!生き返った!」 活動最終日、最後のビールは旨かった。
耕運機ロビンちゃんのキャブレター
ロビンちゃんのキャブレター
10月31日 水曜日
朝礼の後、ボランティアへ出発する仲間を見送りをしてから、行ってきますとかわいキャンプを出発する。宮古の仮設と金浜にまた来ますと顔出して、野田村みなみで昼食をとり、野田村ボラセンに顔出して、八戸港フェリーターミナルへ、

22時00分発苫小牧行きのフェリーに乗って岩手を離れる。出航の際デッキに上がって町灯りを見送る。船が動き出すと夜風が肌に冷たく刺さる。ここを訪れる度に復興の歩みを感じて少しだけ嬉しい気持ちになる。

しかし同時にその癒える事の無い傷の深さを感じて形容しがたい暗澹たる気持ちになる。それでも前を向いて一歩ずつ歩みを進める以外無い。と思う。確信は無い。答えも正解も解らない。でも再び訪れます。それは決定事項
かわいキャンプのニーズ張り出しボード
ニーズはいくらでもある
11月1日 木曜日
6時00分苫小牧港着。青空とキンキンに冷えた空気が出迎えてくれる。まるとま食堂でホッキ汁と納豆ご飯の朝食を食べて暖まる

日が高くなり気温が上がってくるまでゆっくり走る為に支笏湖経由で札幌に向かう。原付自転車のようにゆっくり走る。太陽が当たっている部分がほのかに温かい。森には冬の匂いが満ちていた。

支笏湖畔のモーラップキャンプ場近くのエリアでバイクのトレーニングをしてみる。低速走行からのスタンディングでフロントアップが出来るようになっていた。やや進展している。転ばない程度に身体を動かして暖める。

午後のリハビリに備えて大通り公園西7丁目の小山を使っていつものリハビリストレッチ。昼ご飯に円山の餃子のお店でいつもの定食をいただく。今は餃子入りスープカレー定食にはまっている。

16時00分から手稲渓仁会病院で外来リハビリを受ける。寒中の重労働に耐える身体に仕上がっていた。しかし全身疲労と筋肉痛で身体が固くなり柔軟性を失っている。しばらくは動きを出す程度の軽めのリハビリメニューで様子見だ。

リハビリを終えると外は冷たい雨が降っていた。今回の旅では一度も雨に当たらなかった。感謝感謝!帳尻合わせの雨なら喜んで受けよう。もう家までたいした距離じゃない。
夜明けの苫小牧港フェリーターミナル
苫小牧港フェリーターミナルの日の出
三ヶ月後、ゴジュウカラのお告げの意味が判明する
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